教会で

聖堂が最も輝き美しいのは、礼拝のときです。教会に行く人は祈ったり、聖(賛美)歌を歌ったり、説教を聞いたりするということは、誰もが知っています。しかし、何故、そういうことをし、それはどういう意味があるのでしょうか。
キリスト教は、幼子にも分かるものですが、偉大な学者が一生かかっても分からない、体得するしかないものです。多くの人が経験するように人生は計算どおりに行くものではありません。偶然や運命という言葉を用いるなら、人生がよくても悪くても敗北的になります。私たちを超える超越的な存在を認めるなら、そのお方との対話(祈り)を通して、自分の人生を生きることができるのです。
もし、あなたが「本当のもの」に飢え乾いておられるのなら、礼拝に参加する資格は十分にございます。独りよがりを排し、真実なものをご一緒に求めて参りましょう。

狭い門から入りなさい。
滅びに通じる門は広く、
その道も広々として、
そこから入る者が多い。
しかし、命にいたる門はなんと狭く、
その道も細いことか。
それを見出すものは少ない。

(聖マタイによる福音書7章13,14節)


キリスト教の中心は礼拝にありますが、その礼拝の中心はイエスご自身が制定されたパンとぶどう酒の祭りです。それは、ユーカリストやミサや聖餐式などの多くの名で呼ばれ、2000年の間、絶えず献げられてきました。その他に規則的に毎日朝夕の礼拝やその他、結婚式や洗礼式や葬式や共同的ではない個人的な礼拝もあります。

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